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活字文化は「死に体」か

(2011.8.2 )

山崎義雄

 活字文化の弱体化が急速に進んでいる。私は昨年暮れ、マスコミ関係者数十人の
一泊旅行に参加した。大新聞の重役OB二人と相部屋になり、雑談の折に、どこの
新聞社も部数減で苦戦を強いられているという話が出た。
 そこでお二人に私の持論をぶっつけた。なにより今の新聞は紙面づくりが間違っ
ている。新聞は読者の頭力(あたまちから)に訴えるのが本旨だ。特に一面には政
治・経済・社論を載せるべきだ。一面に社会的な事件やスポーツ記事を載せてはい
けない。事件やスポーツ記事ではテレビの速報性に敵わない。それらの記事はスポ
ーツ面や社会面に載せればいい。
 こうした紙面改革をやれば浮ついた読者は離れ、購読者は減るだろうが、固い層
の読者が残る。新聞購読がステイタス・シンボルともなり、新聞の生き残りの可能
性がでてくる。むかし鍋、釜を景品に購読者を増やした時代を引きずっていてはダ
メだ。新聞事業は大部数指向を改めて適正規模に向かって縮小均衡を図るべきだ。
というのが私の持論だ。お二人の大賛成は得られなかったが、「そうかもしれない」
程度に認められた。
 そんなことがあって今年1月。サッカーの何とか言う世界大会で日本が優勝した

にわかフアンの私も深夜というか、夜明けの決勝戦をテレビ観戦して優勝に興奮し
た。翌朝の大新聞一面に大活字でサッカー記事が載った。しかしいずれも締切の時
間切れで「延長戦に突入」段階までの報道が精一杯。優勝の「ゆ」の字も報道でき
なかった。テレビの勝ちである。全く同じ内容の記事を日経新聞はスポーツ面に収
めていた。矜持のある対応だ。
 若者を中心に新聞を読まなくなったと言われて久しい。大学出の若者でも新聞の
ニュースはネットで読めるとうそぶいて新聞を購読しないことを恥ずかしいなどと
思わなくなっている。古くはテレビに食われ、新しくはインターネットに食われて
このままでは新聞の起死回生は困難になってくる。書籍などの活字媒体も電子書籍
に食われ始めている。
 小池龍之介という和尚はネットにも強そうだが、「情報ツールと距離を置かない
と、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になって
しまう」と警鐘を鳴らす(日経12・20)。「ツイッター」でムダな“つぶやき”が
世に溢れるのも問題だ。
 「中野孝次の論語」で中野先生は「君子は言(げん)に訥(とつ)にして、行(こう)に
敏(びん)ならんと欲す」という孔子の教えを、「君子たる者は、物言いにおいてはむ
しろ口べたで、行動実践においてこそ敏捷でありたいものだ」と訳して教える。その
上で「孔子が現代を見て、テレビに登場する頭の動きの素早い、物言いの早く、言
葉数の多いタレントなる連中を見たら、なんといったろう」と慨嘆している。
 大脳より視覚に強く訴えて、ものを考えさせずに見せてしまうテレビ文化(文化
といえるかどうか)の対極にあるのが活字文化だ。止(とど)まって思考すること
が活字文化の神髄だ。読める力のあるものしか読まない新聞、読む力を育てる新聞
が、字も読めない子供にも残虐な事件報道を繰り返して見せるテレビと競い合って
はならない。
 いま伝統文化とか言われている大相撲は八百長問題で土俵割れ寸前の「死に体」
だが、活字文化が「死に体」であってはなるまい。

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