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大震災と政治家の志

山崎義雄(2011.9.19)

 東日本大震災の後、目指すは復旧か復興か、復旧ではない復興だといった論議が盛んに行
われた。日本語大辞典(講談社)によると、復旧とは、元の状態に戻ること、また、戻すこ
と。復興とは、元通りさかんになること、さかんにすること、とある。
 広辞苑(岩波書店刊第二版)によると、復旧とは、元通りになること、元通りにすること。
復興とは、ふたたびおこること。また、ふたたびおこすこと,とある。
 これでは復旧と復興の違いはあまりはっきりしない。どうやら復旧とは、もともと盛んで
あったとしても寂れていたとしても関係なく元の状態に戻すことであり、復興はもともと盛
んだった状態に戻す、ということらしい。
 乱暴に丸めれば、復旧とは元通りに直すことであり、復興とは盛んにすること、というこ
とになりそうだ。あるいは、復旧と復興は二者択一の選択を迫るものではなく、復旧を果た
し復興を目指すという時系列的に続く工程の違いだと考えることもできそうだ。
 とはいえ、福島原発に被災した一定地域の住民は、菅前総理によって土地を捨てよと言わ
れた。復旧も復興もムリだと宣言されたに等しい。諦めてよそへ行けというわけである。退
陣間際の総理が軽はずみに口にすべきことではなかろう。どこまでも軽いカンカラカンであ
った。新総理の野田のドジョウはそう軽くはなさそうだ。
 しかし、泥の中をはい回る泥鰌の志とは何だろう。新任の大幹部は、泥鰌の棲みやすい泥
になるつもりだと言った。「泥鰌の土壌」とはお笑いだ。「粘り」が泥鰌の身上かもしれな
いが、粘りだけなら菅前総理も辞任間際に発揮した。総裁選では、主力候補の一人が拭き掃
除でも何でもするといえば、対抗馬は、それなら私は庭掃除をすると応じた。こうした政治
家の志の低さをマスコミは非難しない。
 菅総理は大震災に遭遇して運が悪かったといった人がいる。大政治家ならここが働きどこ
ろではないか。後藤新平は関東大震災の後、帝都復興院総裁として「単なる復旧ではない。
復興である」と宣言して今ある東京の基本設計を行った。
 ただし人間の力(ちから)ワザだけで復旧、復興はおぼつかない。自然は猛威を振るうが
修復の償いもする。自然は人間の過ちまで修復しようとする。広島の被爆後は、70年間は
食物も動物も育たないと言われたが、翌年には活き活きと草花が育った。この事実は、米国
の都市爆撃という非人道的な罪業を軽減するものではないが、自然の持つ回復力、治癒力は
計り知れないものがあるる
 25年前に起きたチェリノブイリ原発事故の後も何十年かは草木も生えないと言われたが、
いまだに高い放射能が計測される環境の中で、現在すでにうっそうとした林が復活し、色々
な動物が生息して多様な生態系の回復が見られるという。
 だから福島の大地も簡単に生き返ると楽観論を述べるつもりはない。政治家は、人間の愚
かさを修復してくれる自然の偉大な治癒力に願いと祈りを捧げながら、後藤新平を仰ぎ見て
志を高く持ち、復旧・復興のために政治が何を成すべきかを考えてもらいたい。

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