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明暦の大火と保科正之
(2011.12..20)
山崎義雄
これまで、東日本大震災と原発事故への国政の稚拙な対応が混乱を招いたが、新しい年
こそ力強い復興元年になってもらいたい。しかし野田どじょう首相の手腕に疑問が生じて
いる。
山内昌之著「リーダーシップ」(新潮新書)は、リーダーの条件として、胆力、大局観
などの資質を挙げ、大震災などの危機に直面した場合のリーダーの見本として徳川幕府の
重鎮だった保科正之を挙げる。保科は、時の幕閣にあって、明暦3年(1657年)の大火
の折に指揮系統を明確にして、迅速、適切な対策を講じた。
この時保科は、三代将軍家光を上野寛永寺か閣老の邸に移そうという幕閣の動きを押さ
え、将軍をかろうじて焼け残った西の丸に移す。西の丸が燃えたら陣屋を設けてでも千代
田の城にとどまると決めた。将軍が動くと警護のために武士団も動き、指揮命令系統が乱
れる。次いで備蓄米の放出や炊き出しなどで、庶民の生活支援と人心の安定を図ったとい
う。
近代以降の大災害では、関東大震災時には、わずか5日後に内務大臣後藤新平による「帝
都復興」活動がスタートした。阪神淡路大震災時は、自社さ連立政権の村山富市首相は、
自民党閣僚の協力と官僚機構の活用で成果を上げた。著者はこれについて、村山首相の責
任を回避しない姿勢、穏和で飾らぬ人柄が政治家を結集させたといい、民主党政権下の菅
前首相の振舞いとは大きな違いがあるという。
確かに人を動かす人の魅力は大事である。保科は、徳川二代将軍秀忠のご落胤でありり
三代将軍家光の腹違いの弟として、さらに四代将軍家綱の叔父として、幕政で重きをなし
た。しかし彼は、高遠藩主保科正光の子として育ち、会津藩主となった後も、最後まで将
軍家とは君臣の礼を崩さなかった。奥ゆかしい人柄で、殿中ではいつも隅の方に端座して
いた。
小説「天地明察」(沖方丁著)は、保科正之の坐相(ざそう)は「不動でいて重みが見え
ず、地面の上に浮いている≠ニでも言うほかない様相」であり、「あたかも水面に映る
月影を見るがごときで、触れれば届くような親密な距離感を醸しながら、それでもなお水
面の月を人の手で押し遣ることは叶わないことを思い起こさせる」と形容している。
また明暦の大火における保科の業績については、火災時に米倉の米俵を民に運び出させ
て後にこれを支給し、火災後には、消失した天守閣の再建都止め、治安維持の武士団を置
かず、参勤の諸藩を国元に帰らせ、江戸出府を延期させて江戸の人口を減らし、震災時に
避難しやすい江戸の道路作りを進めたとしている。市民生活重視の施策である。
小説では、三代将軍家光は保科を事実上の副将軍として扱い、四代将軍となる家綱の養
育を任せ、家綱が将軍になってから、保科が重い病に罹って隠居を願い出たが許されず、
体調の良い日だけ輿に乗って登城せよと命じられ、頼りにされた。
さらに保科は、死に臨んで会津藩家老に命じて、これまでに幕府や将軍に建議した資料
を一切焚き捨てさせたという。あれもこれも保科の献策だったということで将軍の権威を
貶めることを畏れたためである。家老は泣きながら資料を消却したという。
どうやらリーダーシップには、胆力、大局観などに加えて、情≠ェ必要らしい。その
情は、浅くて迷いのある情ではなく、人間性と同調する不動の情だろう。