山崎義雄(2012.1.28)
「絆」のウラおもて─ 続
子供の頃、といっても自我の芽生える10代の頃、親がいなかったらどんなに自由だろうとか、
親兄弟のしがらみにとらわれない自由、天涯孤独の自由などを夢見たことがあるという人は案外
多いのではないか。少なくとも私はそうだった。
子供の頃は親の拘束や圧迫感からの逃避願望、長じては人間関係のしがらみや桎梏からの逃避
願望がある。たとえば社会からのドロップアウトと見なされる路上生活者などの中にも、そうい
う思いでそういう道をたどった人もいるのではないか。
えてして親は子を束縛し子は親に反発するものだが、もがいても憎んでも断ち切れないのが親
子の絆である。歳を重ねて「孝行をしたい時には親は無し」となってようやく親の心情を思った
りするほどに、人間の心底に深く沈澱しているのが「絆」ではなかろうか。
日本語大辞典(講談社)では、絆とは @動物をつなぐつな。A肉親間などの、絶ちがたいつな
がり。深い関係。ほだし。とある。ところが、「ほだし」で引くと@馬を歩けなくするために、
足にかける縄。A手かせ。足かせ。B拘束すること。人情でからむこと・もの。となってマイナ
ス面が強調される。動物をつなぎとめる綱といった非情な意味が強くなり、情に「ほだされる」
などといったウエットな「滋味」が薄くなる。
例解古語辞典(三省堂)では、絆について≪動物をつなぎとめる「綱」の意から≫@離れがた
いつながり、A絶ちがたい愛情、とした上で、「用例」として、@「父の鎧の袖・草摺りに取り
付き(中略)慕い泣き給うにぞ、憂き世の絆とおぼえて」【平家七・維盛都落ち】、A「名告(の)
らで過ぎし心こそなかなか(=カエッテ)親の絆なれ」【謡曲・景清】と、いずれも古今に変わ
ることのない、絶ちがたい親子の愛情を挙げる。
こんな「絆」だが、英訳すると「ties」もしくは「bond」となるようだ。これでは実に欧米
風の、人間関係におけるただの「つながり」や「結びつき」で、日本の精神風土に根ざした絆の
持つ深みに欠ける。大げさに言えば、「きずな」は日本文化の特質でもある。そうだとすれば英
訳せずに「きずな」で理解してもらうべき言葉であろう。
ところがいま、問題は自己中心の若者をはじめ日本人の間で急速に「絆」が失われていること
だ。「絆」には、煩雑な「付き合い」とか、「腐れ縁」のような負の側面もあるが、根底には「感
謝」「報恩」「思いやり」などの精神がある。そこから生まれる人間の紐帯が「絆」のはずだ。そ
の精神作用が弱くなると、「絆」は限りなく「ties」もしくは「bond」のワールドに接近してい
く。
昨年末から今年のはじめに大はやりした軽薄な「絆」連呼に、にがにがしい思いをした人も少
なくないと思うが、いま改めて日本人の精神の深みに沈潜する「絆」の意味を問い直すべきでは
ないか。